ドクターサロン

池脇

約10年前の意識消失をきっかけに、それよりも過去の記憶がないということで、逆行性健忘という印象なのですが、先生はこれをどのように解釈されますか。

吉益

ある時点で発症して、この方の場合はさかのぼって出生までの記憶を失っているということですので、逆行性健忘という症状でよいかと思います。

池脇

逆行性健忘というのは診断名ではなくて症状なのですね。

吉益

おっしゃるとおりです。

池脇

そうすると、その症状を呈している病気は何か、診断ということになりますが、このあたりはどうでしょうか。

吉益

これだけの健忘があって、検査結果が出ない。しかも10年続いているということを考えると、精神疾患の可能性が高いと考えられると思います。ただ、身体疾患の除外は必要ですので、特に脳腫瘍、脳血管障害、てんかん、一過性全健忘などとの鑑別は必要になるかと思います。

池脇

失神を起こしたときに、おそらく頭部だと思いますが、CT、MRI、あとは神経学的なことで、特に異常がないとなると、今先生がおっしゃったような脳腫瘍や、てんかんも何かあれば引っかかると思うので、その可能性はちょっと低そうですね。

吉益

おっしゃるとおりかと思います。

池脇

そうすると、何がきっかけでこういう状況になったと考えるのでしょうか。

吉益

このように10年症状が続いていることを考えますと、一過性の病気は否定的ですし、また発作性のてんかんのような病気、悪性腫瘍のような進行性の病気も否定的だと考えます。そうすると、精神疾患の中で特に解離性健忘という病気を一番に考えるべきかと思います。

池脇

失神のときに倒れて、頭部打撲、外傷、それが記憶障害、健忘につながったのかと思ったのですが、先生がおっしゃった解離性健忘とはどういうことをきっかけに起こるのでしょうか。

吉益

ストレス、特にトラウマというような大きなストレスが関係していることが多いといわれています。ただ、今回もそうだと思うのですが、軽度な頭部外傷をきっかけにして全般性の解離性健忘が出現することもしばしば報告されています。

池脇

そうすると、倒れて頭部の打撲をしたことが解離性健忘の原因、きっかけの可能性はあるということですか。

吉益

自転車に乗っていて、側溝に落ちて頭を打って、その後、頭部外傷は軽度でありましたが、それ以前のことを思い出せなくなった。または、ラグビーの選手が試合中に脳振盪を起こして、その後、以前のことを自分の名前も含めて思い出せなくなったなどの報告があります。

池脇

先生が具体的におっしゃったケースと似ているなという印象があります。解離性健忘は、そういう頭部の打撲、外傷がきっかけでも起こるということなのでしょうが、これは精神疾患の範疇に入るような疾患なのでしょうか。

吉益

以前はこの病気は心因性の健忘と呼ばれていました。心因性というのは心が原因で起こるものです。30年ぐらい前から心因性の健忘に代わって解離性健忘といわれることが多くなっています。すべてが心因性だと特定しすぎないほうがいいだろうという配慮です。

池脇

ちなみに、解離性の解離というのはどのような意味を持っているのでしょうか。

吉益

少しわかりにくい用語なのですが、意識や記憶の連続性が失われるという精神の状態のことを解離と呼んでいます。

池脇

それこそ「私は誰」みたいな状態になりうるのですね。

吉益

そうです。解離性の健忘には全般性の解離性健忘と局在性の解離性健忘の2種類があります。最初に申し上げた全般性の解離性健忘というのは、自分の過去のすべての記憶を失うので、自分の名前がわからない、生年月日もわからない。また、家族の名前も顔もわからない。そして住所も、または職歴や学歴もすべてわからないという、今回質問をいただいたようなかたちになります。

池脇

限局性というのはどういうことなのでしょう。

吉益

限局性というのは、前向性の心因性の健忘を繰り返します。ですから、非常にストレスフルな状況になったときに、その現場ではしゃべったり、行動したりしていますが、あとから振り返ってみると、そのときのことを全く覚えていないということです。

池脇

この症例は先生が先に言われた全般性の解離性健忘がぴったり合うというような印象を持ちましたが、こういう方の対処というか、治療はどのようにするのでしょうか。

吉益

残念ながら解離性の健忘に適応のある薬物は今のところありません。ですから、薬をのめばそれだけで治るというものではありません。一番大事なのは安心できる安全な環境に身を置くということになります。そして、少し時間はかかりますが、自然の回復を待つようなことが通常行われている治療になります。

池脇

安全なところに身を置くというのは、患者さんは根底に何かストレスあるいは不安を抱えていて、そういったものを取ってあげることによって記憶がまた戻ってくる可能性があるという理解で正しいでしょうか。

吉益

よいと思います。記憶を失ったこと自体がストレスから逃れるための生体防御反応という考え方もできると思います。

池脇

薬はもちろんこれといった決め手になるような対処、治療がないとなると、じきに記憶が回復してくればいいと思うのですけれども、この方の場合は10年前にそれより前の、あるいはすべての記憶を失われて、どうも10年、状況は変わらないようです。こういう方は記憶に関しては予後が悪そうですが、症状は様々なのでしょうか。

吉益

そのとおりです。数日から数週間で失った記憶をまた想起できるようになる、思い出すことができるようになるというのが通常の回復の流れです。ただ、一部の方は長く解離性の健忘が続くことがあり、この方は10年間続いていますので、確かに今後の回復の可能性は高くはないという時期に達しているかと思います。

池脇

こういう方は、過去の記憶あるいは自分の名前等々は思い出せないけれども、今日何を食べたとか、そういう記憶は大丈夫なのですか。

吉益

そのとおりです。新しいことを覚える部分は保たれていますので、新しい記憶は徐々に蓄積されています。ですから、おそらく新しい名前をもらって、その新しい名前で新しい生活を始めて、そしてその新しい名前での体験が徐々に積み重ねられているという、そういう状況で10年間来られているのかと思います。

池脇

確かに自分の名前や両親の名前等々を思い出せないのはショックかもしれないけれども、そういう病気だということを理解していただいて、新しい自分をこれから一緒にということで、何とか日常生活をしていく可能性もあるような気がしますが、どうでしょう。

吉益

そのとおりです。生活を後ろから支えてあげるような考え方。ただ、不眠症とかそういう問題が新たに生じることもありますので、そういうときには医学的なサポートが必要です。そして、解離性の健忘になった方は一生の間にうつ病になる可能性が高いといわれています。万が一そういうときには濃厚な治療が必要になる時期も出てくるかと思っています。

池脇

ありがとうございました。