齊藤
「薬に頼らないこころの健康法」についてうかがいます。そもそもうつ病などを薬によって治療することが盛んに行われるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
井原
1999年に新型の抗うつ薬が市場に出るようになりました。フルボキサミンという薬が最初で、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)と呼ばれる新型の抗うつ薬です。このときに製薬会社が大きくうつ病啓発キャンペーンを行いました。このキャンペーンによって、自分はうつ病なのではないかと思ってメンタルクリニックを受診する方が増えました。そのあたりから、つまり薬物療法が盛んに使われるようになる前に、まず自分はうつ病なのではないかと疑問を感じて、メンタルクリニック、精神科の外来を訪れる患者さんが増えたのが1999年以降です。
それ以前はうつ病の方が自分はうつではないかと思ってメンタルクリニックを自主的に受診することは少なかったのです。日本の文化の中では、精神科はまだまだ一般的でなく、どちらかといえば、統合失調症御用達という雰囲気がありましたから、行くのをためらっていたと思います。それが1999年以降はわりと、気軽にというわけではないけれども、以前と比べればちゅうちょなく受診するようになった。それで患者さんが増えたということがあります。
齊藤
国際的にはどうだったのでしょうか。
井原
欧米では日本よりも10年ぐらい早く新型抗うつ薬、SSRIが使われるようになっていました。日本は10年遅れていたのです。製薬会社が日本に対してSSRIをプロモートしなかった一番の理由は、マーケットが小さいと思っていたからです。ただ、日本も欧米と同じように高度産業化社会で、実際には高度産業化社会独特のうつの患者さんが多いはずだという意見も出てきたときに、まずは市場の掘り起こしが必要だろうと製薬会社が考えたのは非常に正しかったと思います。うつの患者さんを掘り起こして、そこに抗うつ薬が使われるようになりました。
齊藤
欧米での先立った使用で、どういったことを医師の皆さんは感じていたのでしょうか。
井原
1990年代の後半、私はイギリスにいてイギリスの精神科医とも話す機会があったのですが、当時から医師、つまり薬物療法を行っている実践家の立場から、喧伝されるほどには効かないという抗うつ薬懐疑論、新型抗うつ薬の効果に対する疑問が出てきていました。さらには、当時からすでに論文になったものはバイアスがかかっている。つまり、プラセボと比較して有意差が出たポジティブデータしか論文になっておらず、その背後に論文にならなかった、つまりプラセボと有意差がつかなかった研究が膨大な数隠されているのではないかといううわさすら、すでにささやかれていました。
齊藤
そういうことなのですね。
井原
その後、事実が2008年ぐらいから一気に出てきたのです。
齊藤
そういったことが背景にあって、薬に頼らないでということですが、具体的には何が重要なのでしょうか。
井原
今回、「薬に頼らないこころの健康法」という言い方をしていますが、健康を作るというのは薬で得られるわけではなくて、生活習慣です。例えば、風邪にかかりにくい体、抵抗力のある体を作ろうと思ったら、睡眠、運動、食事に気を使って体自体をある程度丈夫にしなくてはいけないと思います。心も同じなので、こころの健康法、つまりうつになりにくい心になる。あるいは、うつになった場合にも、その症状が軽く、早めに回復できるような心と体を作っていくことが必要になってきます。そういう健やかな心と体を作る方法は、薬ではなくて、やはり生活習慣です。そうなったときに、睡 眠、運動、食事ないしアルコール、こういったことを見直していく必要があると思います。
齊藤
最も重要なのは何ですか。
井原
一番大切なのは睡眠だと思います。一般論として、働き盛りの人は睡眠不足で、高齢者やリタイアした方の場合には睡眠過多というわけではないけれども、臥床、つまり横になっている時間が長すぎるという問題があります。それから、中学生、高校生、若者世代は睡眠のタイミングが悪い。寝るのが遅すぎて、起きるのが遅くなってしまったりする。つまり、働き盛りは睡眠不足、高齢者は横になる時間が長すぎる、若者は睡眠のタイミング、という問題です。
齊藤
うつの人が先生のところで新たな治療を目指したいとなると、具体的にはどのようなことになりますか。
井原
例えばリタイアした高齢者の場合、生活リズムを見直してみると、過度の安静、過度の臥床がある場合が多いのです。もう一つの問題として、激励してはいけないといういわゆる激励神話というものが精神医学の世界にはあります。これははっきり言ってしまえば何の根拠もないのですが、高齢 者に対してあまりにも安静をお勧めしすぎるとよくないのです。安静というのは体にとって侵襲になります。人間の体というのは、7時間眠って、17時間は起きている。17時間は地球の重力加速度に逆らう生活をしないと体が弱ってしまうので、高齢者の場合、横になっている時間が長すぎるのではないかというところを見ていきます。本人はそのつもりでなくても、家族に聞いてみると、昼間にけっこうウトウトしている時間が長いとか、夕食が終わったらすぐに部屋に戻って寝ている、あるいは朝ごはん、お昼ごはんの後もゴロンと横になっている。こういう生活になっている場合が多いのです。
齊藤
働いている人はどうですか。
井原
働いている人の場合は、我々医師も人のことを言えた義理ではありません。医師でも寝不足自慢をする人がいますから。しかし、ビジネスパーソンの場合には押しなべて睡眠が不足しています。睡眠が不足している理由は、長時間通勤などの場合もありますからなかなか難しいのですが、一般的に日本人のビジネスパーソンは睡眠の時間が短すぎると思います。
齊藤
まずはどういったことを先生はお勧めになるのですか。
井原
その方の生活実態をまずうかがいます。例えば会社に通勤することを前提に、会社に遅刻しないで着くためには朝何時に出発しなければいけないか、何時に朝ごはんを済ませなければいけないか。逆算して、何時には目覚めなければいけないのかを計算します。それが例えば6時という回答が得られたならば、では6時起床、7時間睡眠ですから、23時に寝る。23時に寝て6時に起きるというリズムを目標にしましょうというようにお勧めします。
たいていのビジネスマンは、6時起床だけれども、寝るのが遅い場合があるのです。ですから、早めに就寝するように促すのですが、あまりにも長時間労働を強いられるような会社の場合もあるので、必要に応じて会社に意見書や意見を記した診断書を書く場合もあります。就業継続は条件付きで可能である。その場合の条件は、向こう3カ月、時間外労働を何時間にとどめるとか、時間外労働を控えるなどの条件を付けて提出します。
齊藤
眠るためには運動が前提になりますか。
井原
そうですね。一定の肉体疲労があって初めて質のいい睡眠が得られますので、運動というのは大事です。ただ、働き盛りの人間はスポーツジムに行く暇などないので、通勤を運動の機会にしていただく。例えば、家から駅まで歩き、乗り換えのときに階段を歩くとか、そして駅からまた会社まで歩く。会社の中では、場合によっては階段を17階まで歩いてもらうとか、17 階は無理にしても、そんなふうにして日常生活の中で歩く機会を持っていただく。そして目標として1日の歩数合計7,000歩ぐらいを目指していただきます。
齊藤
それを外来で指導するのですね。
井原
そうですね。
齊藤
次の診察のときに評価してアドバイスしていく。その人に合わせてやっていくということでしょうか。
井原
そうですね。特に私の場合、睡眠日誌というものをつけてもらいます。そこには24時間╳14日間が表側、裏を返して裏側にも24時間╳14日間書けるようになっているのですが、何時に寝て何時に起きたかを書いてもらって、右の空欄に歩数を書いてもらうのです。
齊藤
それによって評価して次回はここを頑張ろうなどとアドバイスをするのですね。
井原
そうです。
齊藤
先生は、患者さんが気づいて自分で治っていくことをサポートするということですか。
井原
おっしゃるとおりです。患者さんにも申し上げていることなのですが、私が患者さんを治してさしあげるわけではありません。私が行うのはこうすればメンタルがよくなりますよという提案です。ですから、スポーツのコーチとか、経営改善のための経営コンサルタントと似ています。実行していただくのはあくまで患者さんご自身だと、そういうスタンスになります。
齊藤
どうもありがとうございました。