ドクターサロン

齊藤

産業医の役割についてうかがいます。我々一般の医師は産業医の資格を持っていますが、これはただ持っているだけではなくて、いろいろ重みがあるということでしょうか。

河野

「重み」という言い方をするとすれば、責任の重さでしょうか。 以前は医師であれば誰でも産業医になることができたのですが、現在は労働安全衛生法で定められた研修を修了していることが産業医の要件になっています。「母体保護法指定医」「精神保健指定医」「産業医」、この3つには法律に基づく規制があって、医師免許だけではできません。

どの医師も「人権」に深くかかわる仕事をしています。人権にかかわることなので、通常の医療は「診療契約」に基づく本人の「同意」のもとで行われます。ところが、この3つの仕事では、その同意に問題があります。

人工妊娠中絶は母体保護法指定医しか行えませんし、強制入院や入院患者の身体拘束にかかわる判断は精神保健指定医でなければできません。いずれも、命を奪う、自由を制限するという人権に直接かかわる行為ですが、胎児は同意ができませんし、精神障害者は同意しないから措置されます。産業医は、就業制限・配置転換・休職・職場復帰などの就業上の措置に関する意見を事業主に述べます。事業主はその意見を斟酌して措置を行います。こうした措置は、労働者の意に沿わないことや労働者に不利益をもたらすことがあります。労働者の「社会的命」を左右することもあるこのプロセスに、労働者との契約関係がない、したがって労働者にとっては選ぶことのできない、産業医が関与しています。この点が人権にかかわる問題として意識されているのです。

ちなみに、事業主と労働者は「労働契約」で結ばれており、産業医は事業主と「産業医契約」を結んで仕事をしています。しかし、労働者と産業医の間には契約関係はありません。労働者は産業医を選ぶことができないのです。 産業医として仕事をする際には、こうしたことに気を配っていただく必要があります。

齊藤

臨床医が産業医をしている会社で具合が悪い社員を見つけて、「ではうちのクリニックで薬を出すから来てね」というパターンもありうると思うのですが、そうすると具合が悪いのですね。

河野

はい。それは、「診療契約」と「産業医契約」の違いから生じます。

診療契約は患者が医師を受診することで成立します。契約の内容は、医師は患者の診断・治療に最善を尽くすことです。産業医契約の内容は、「労働契約法」で課されている「安全配慮義務」を事業主がきちんと果たせるように支援することです。事業主が安全配慮義務を確実に履行すれば、業務に関連する健康問題が労働者に起こることを防げます。産業医は、そのために事業主を支援するのです。実務上、産業医は直接労働者と接しますが、その効果はあくまでも事業主を介したものだということです。ですから、産業医から「ちょっと私の診療所に来て」と言われて診療所を訪れた労働者は患者であって、契約は診療契約になります。それは産業医としての機能ではありません。

齊藤

具体的に、うつ病になった社員がいて自分が開業しているクリニックで治療して良くなったので復職可という診断書を書く。今度はその診断書を持った社員が会社に来て、「これ、もらいました」で、今度は産業医、人事に見せるということになると、この開業医は一人二役で、これは具合が悪いですね。

河野

①抑うつ症状の消失 ②生活リズムの維持 ③本人の復帰の意思、この3点が確認できれば、多くの主治医は復帰可と判断します。しかしこれは、通勤や労働負荷のない状態での判断です。産業医には、復帰後の労働負荷のコントロールについての意見を述べるなど、復帰がより確実にできるようにする役割があります。状況次第では、安全配慮義務の観点から、復帰を認めない旨の意見を述べることもあります。

齊藤

復職できるか微妙なことがしばしばあって、主治医が復職可と書いた場合に、会社としてはその段階でその社員が復職できるかを見極めるために産業医に相談、意見を求めるのですね。

河野

はい。

齊藤

そういった中で、通勤シミュレーションをやって、生活のリズムや意欲を確かめることになりますか。

河野

それもやり方のひとつですね。

齊藤

それができるということになると、今度は試し出勤になるのでしょうか。

河野

休業中の労働者への産業医のかかわり方や復帰の具体的な進め方は企業によって違うのですが、復帰を希望する労働者から、主治医による「復帰可」の診断書が提出されると、事業主は産業医に意見を求めることになっています。どの企業でも、この段階で、産業医の関与が大きくなります。

齊藤

そこは先ほどの安全配慮義務ということですね。

河野

そうです。

齊藤

休んでいる間にその社員と産業医が接するのはどうでしょうか。

河野

私は、産業医は休業中の労働者にも定期的に接触することが必要だと考えています。定期的に面談していれば、労働者の話から、回復具合や、生活リズムの状況、投与されている薬とその量、主治医の考え方などがわかります。本人の復帰の意思やそれに対する主治医の考えも把握できます。

国が出している「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰の手引き」(2014年版)もそれを推奨しているのですが、休業中は「主治医任せ」の企業も少なくありません。

齊藤

復職して最初は軽い仕事ということでしょうか。

河野

ほとんどの場合、産業医意見として、労働負荷の軽減措置を求めています。

齊藤

適応障害という診断書がありますが、職場適応の問題があった場合、これはどうしますか。

河野

現象として現れている「職場適応の問題」の背景は様々です。職場環境が大きなウェイトを占めている場合もあれば、パーソナリティの問題や発達障害など本人の側のウェイトが大きい場合もあります。産業医の意見はその背景によって異なります。その判断をするには情報が必要なので、本人の話をよく聴き、併せて管理監督者の話も聴きます。

長時間労働など職場環境に明らかな問題がある場合は、安全配慮義務に沿った対策を優先することはもちろんです。

労働者が、職場の人間関係に問題があること、仕事が自分に合わないことなどを理由としてあげ、元の職場に戻りたくないと主張することがあります。また、管理監督者が、協調性のなさ、仕事への意欲のなさ、仕事能力の不足などを理由として、受け入れに難色を示すこともあります。いずれの場合も、元の職場に戻すことが原則です。しかし、何もしないで元に戻すと、健康問題が再燃する危険性があります。そこで産業医としては、人事担当者も巻き込んで、例えば、次のような対処をします。

これは基本的にはマネジメントの問題です。管理監督者には管理監督者としてすべきことを具体的に示し、3カ月程度の間その実践記録を作成してもらう。労働者には、管理監督者が仕事上の配慮を新たにしてくれることになったこと、困ったことがあれば管理監督者に相談すること、月1回程度は産業医面談を続けることを伝える。

齊藤

主治医の診断書に「異動してください」と記載されることがあります。そこは産業医が調整役となってということでしょうか。

河野

主治医の意見は尊重するのですが、配置換えについては扱いが違います。配置換えをするには、それなりの根拠が必要だからです。「職場環境に明らかに問題がある」こと、それが根拠です。本人と面談してもそれが明確にならない場合には、まずは先ほどお話しした内容の産業医意見を出します。うまくいかなくて「なぜ配置換えをしなかったのか、主治医はそれを求めているのに」といったことが起こる可能性はあるのですが、それは想定内の問題で、企業としては対処できます。

齊藤

そうなると、産業医は本人の希望も聞いて、産業医として人事に意見をあげると、人事としても産業医の意見を根拠として動きやすいことになりますか。

河野

会社が労働者に行う措置については公平であることが重要です。人事異動は公平さに関して特に機微な問題です。人事担当者は求めがあれば、措置の理由を説明できなければなりません。主治医の意見は、その理由として弱過ぎるのです。人事担当者の多くは「診断書には患者の要求がそのまま書かれているものがある」と考えています。労働者の健康問題が再燃し、産業医面談によって、先ほどお話しした管理監督者の配慮が十分でなかったことが判明するといった事態が生じれば、産業医は配置換えを求める意見を出すことになるでしょう。

齊藤

産業医の動きがすごく重要になってきますね。

河野

はい。

齊藤

順調にいく人も多いと思いますが、一部の人はなかなかうまくいかない。就業も不安定になってしまう。本人としては本当はやりたいのだけれども、やらせてもらえないとか、思ったことができない。逆に上司からはパフォーマンスが悪くて、「この人ではちょっとな」みたいなミスマッチが起こって、泥沼化することがありますが、産業医として、そのときはどう動くのでしょうか。

河野

そうした事態をゼロにすることを目指して活動しているのですが、なかなかゼロにはなりません。「こじれる」という現象は、当事者双方が自分の正しさを主張して押し合っている状態です。どちらかが一度引けば事態が変化します。こうした場合の私の考えは、「権限を持っている方が引いてみる」です。人事担当者に対して「一度だけ本人の希望に沿った異動をさせてほしい」と頼みます。労働者には「このチャンスを生かしてください。異動先でも同じような問題が生じると、あなたが主張してきた職場に問題があるという主張が崩れます」と伝えます。

齊藤

何か事があってうまくいかないとき、これは事例性といいますか。

河野

「事例性」の定義は「平均的な姿からの乖離」です。多くの従業員が企業から与えられた業務を特段問題なくこなしているのに、それができない従業員がいるとすれば、その従業員は平均的な姿から乖離していることになります。その意味で事例性があると言えますね。事例性の背後にあるものが何かが問題なのですが、それが病気のことも少なくありません。病気が関係しているかどうかの判断は産業医がします。

齊藤

そういったことを記録していって今後に備える。事が起こるか起こらないかは別として備えるということですね。その辺は手続き的理性みたいな言い方もありますか。

河野

記録は重要です。どのような考えで、具体的にどう対処したのか。それに対する反応はどうだったのか。そうしたことを経時的に記録しておきます。それが振り返りを行う際の材料になり、場合によっては証拠ともなります。

齊藤

最終的には本人と産業医の話で、将来を考えるということでしょうか。

河野

うまくいかなかった場合には、最終的にどうするかという話になります。その際にも産業医として指示的なことは言いません。ただ、「あなたが主張しているものの考え方や行動の仕方で、今後も仕事が続けられるかどうかについては、一度検討してみましょう」と伝え、それを実行します。

齊藤

その辺が産業医の非常に重要な役割ということですかね。

河野

私はそう考えています。

齊藤

どうもありがとうございました。